亀谷真智子さんに会いに行く。

亀谷真智子

さやのもとクリニック院長。佐賀県生まれ。医師。東京女子医科大学病院神経精神科、東京女子医科大学病院附属女性生涯健康センター、埼玉精神神経センター等を経て、2014年11月郷里佐賀で心療内科・内科クリニックを開業。東京女子医科大学付属女性生涯健康センター非常勤講師。 

 

病院と本棚

 BACHではこれまで、空港や学校、百貨店や企業など、いろいろな場所に本を置くスペースを作ってきましたが、その時に気をつけているのは、ただお勧めの本を持っていってもおせっかいにしかならないということなんです。本をどう差し出すのか、どう受け入れてもらうのかについて考えることが、より大切なのではないかと感じるようになりました。

 そこで、『差し出しかたの教室/受け入れかたの学校』というこの企画で、それぞれの現場で活躍されている差し出し方のプロ、あるいはこれまで本なんて存在しなくてもよかった場所で、僕たちBACHの仕事を通じて、本を受け入れるという体験をされた方々にお話を聴かせてもらおうと思っています。

 今日は「受け入れかた」の方のお話をうかがえればと思います。本なんて読まないというか、読めないかもしれない認知症 *1患者さんと、そのご家族が集まる外来診療のクリニックに本棚を作るというご依頼でしたね。本にとっては、まさに容赦のない場所といっても過言ではありません。  お話をいただいてから、本棚が完成するまで1年以上にわたって、患者さんやご家族、医師やスタッフの方々にインタビューを繰り返し、ついにクリニックに本が並びました。まだ患者さんが入られる前ですけど、どうですか? まずは一言感想をお聞かせいただければ。

亀谷 このクリニックのコンセプトや、どういう思いでこの場所をつくったのかなど、私が話す以前に、あの本棚がそれを見事に語ってくれている気がします。

 私の想いが既にあの本棚に表現されているというか、復元されていますね。BACHさん、すごいなと思いました。

 ありがとうございます。嬉しいです。

 そもそも亀谷さんはクリニック開業にあたって、なぜ本を置こうと思ったのですか?

さやのもとクリニック外観
設計:山﨑健太郎デザインワークショップ
撮影:黒住直臣

亀谷 この「さやのもとクリニック *2」は心療内科・内科と通院型の認知症ケアを中心とした病院です。クリニックのなかでも診療スペースではない部分、患者さん本人はもちろん、患者さんのご家族も利用する待合のスペースをニュートラルな状態で保つにはどうすればいいのかということを考えていました。

 いつもお話することなのですが、基本的に病院という場所は、元気で何の問題もない人は来ません。具合が悪かったり、どこか弱っていたり、何らかの困りごとをかかえた方がいらっしゃるところです。

 そうですね。

亀谷 付き添いでいらっしゃるご家族も身近な人の調子が悪くて、それでも気持ちが上向きのままでいられる人なんていません。心配したり、これからのことが不安だったり、いろいろな想いをかかえていらっしゃいます。

 もちろん病院ですから、治療をするスペースにはどうしてもある程度の強制力が必要です。

 病院というのはそういう場所ですからね。

亀谷 自分が患者さんの立場で病院の待合室の椅子に座っているときは、やっぱり緊張しますからね。

 確かにそうですね。「何を言われるんだろう…」とか不安になって当然ですよね。

亀谷 そうなんですよね。やっぱりリラックスした気分で、カフェで座っているのとは全然違いますからね。駅や空港の待合とも違うし、他の場所とは違う緊張感、不安感がありますよね。

 病院というのは、訪れる人にとってただでさえ嫌な場所なのだから、その嫌さ加減を増やすことだけはしたくありませんでした。

 本の存在というのも、みんなにとってストレスを与えたり、何かマイナスの影響を与えるものではありませんよね。ただそこにあるだけ。そういう意味でニュートラルな存在でもありうるし、あるいは読者にとって+αになる可能性もはらんでいる。

本棚と待合スペース
設計:山崎健太郎デザインワークショップ
撮影:黒住直臣[/caption]

 そうですね。僕も本を置くことで「+αにしてください」とは言いたくないなと思っていました。

 このクリニックの待合からは緑が見えて、大きなガラス窓から外の光がたくさん降り注いで、そして、本が並んでいる。あの空間では亀谷さんがおっしゃるように、病院という場所のシリアスさとは対局の雰囲気が味わえますよね。

亀谷 長い廊下もありますからね、お散歩のように歩いてもらってもいいですし。一般的には、認知症の方が歩くと「徘徊」と呼ばれてしまうこともありますけど……。

 本人には意志があったり、ご自身ではおわかりにならなくても、足が動くということですからね。  

 

ヴィジュアルブックと認知症

亀谷 今回本を並べていただいて、特に嬉しく思ったのは、認知症のご家族のための本を入れていただいたことなんです。このクリニックには入院設備がありません。患者さんが医師の診察を受けている僅かな間だけでも、付き添いのご家族には自分たちの時間を取り戻して欲しいと思っていました。

 ご家族が認知症の方を介護するのって本当に大変です。お父さんを看るんだ、お母さんを看るんだ、という本当によいモチベーションから始まっていたとしても、四六時中の介護、それも毎日ともなると、どうしても肉体的にも精神的にも負荷がかかります。

 そうですね。思いとは別の部分で疲弊してしまうこともあると思います。

亀谷 そうすると、その疲弊から時には自分の心身のコンディションも思わしくなくなることもあり、どうしても感情的に尖ってしまうことが出てきて、それが介護されるご本人に向かうこともあります。たぶん子育てでも同じことが起こり得る。

 そうすると、今度は自己嫌悪の悪循環。認知症の患者さんのご家族は、その悪いサイクルのなかでお疲れになってしまっている。そういうとき、現実には旅行はもちろん、ちょっとした外出もままならない状況ですけど、介護という世界から一時でいいので、少し離れて別の場所に行きたいって思ったとき、一番安全で、一番瞬時に飛べる方法が本なんですよね。

 よかったです。僕、入ってすぐの入り口のところはなるべく軽やかな感じにしたいという意図があったんです。

病院らしく病気に関する本が並んでいて「介護とは……」なんて書いてあったら、まだ自分が足りないとか、もっとやらなきゃいけないことがあるんじゃないかという気持ちにさせられて、さらに疲れてしまうこともあるだろうなと思ったんです。

 それで、入ってすぐのところには「空を見上げる」っていうテーマで空に関する写真とか絵、イラストの本を集めました。

亀谷 選書される前に医師を含め、スタッフや患者さんとインタビューでお話ししましたけど、みんなでわいわいやって、そんなに深くお話を交わしたわけではないのに、このクリニックの意図やコンセプトが本当によく本棚に表れていると思います。

 あのインタビューは深くないように見えて、実は僕のなかでは選書にあたって、すごくヒントになりました。あの時はお酒を飲みながらリラックスして楽しくお話していたので、具体的、実際的な話が聞けたのが良かったです。

 実際に介護をされている方が、「認知症の方にとってテキストが多い本は難しいですよ」と話してくださったり、「ヴィジュアルブックはいいと思うけど、重い本は握力が弱くなっているから難しい」、だったら、文庫版の小さなヴィジュアルブックなら受け入れてもらえるかもしれないな、とか。

 実際、佐賀という土地柄、患者さんのなかには農業に従事されていた方も多くて、オート三輪の写真や広告のヴィジュアルブックは、自分の仕事道具として懐かしく眺めてくれましたね。

車の本が並ぶ本棚
設計:山崎健太郎デザインワークショップ
撮影:黒住直臣

亀谷 そうですね。回想法 *3とか、このクリニックに本を置くことで、その存在に何らかの意味を持たせたり、認知症の治療に役立たせたかったりしたわけではないんです。本はただそこにあるだけで良くて、患者さんにとって刺激になってもいいし、ならなくてもいいと思っています。

 そうなんですよね。読み方を強制された本ほどつまらないものはないというか。だからこのクリニックの本棚は、なるべく自由なスペースにしておきたかったんです。患者さんやご家族には楽しく見て欲しいですね。

 回想法だとどうしても「この昔懐かしい写真を見て何かを感じてください」という、ある種の示唆が含まれてしまいますよね。今回、そうはしたくありませんでした。

 本来、本は読み手にとって感じてもいいし、感じなくてもいい存在だと思うんです。でも、偶然にも感じられるところがあるんだったら、それは自分のなかに染み入るおもしろいことなんだ、というぐらいの立ち位置。

 一応、僕も認知症クリニックの本棚をやらせていただくならということで、回想療法の本を読んだりとか、いろいろ調べてはみたんですけど、どうしても、うーん、こっちに行けない! って思って(笑)。それで、亀谷さんにご相談したら、「違います、違います」っておっしゃってくださったので。

亀谷 そうでしたね。

 だったらいつも通りというか、逆に気楽に本を選べましたね。

 今回、写真集をはじめヴィジュアルブックを多く選書しているんですが、それにもわけがあるんです。特別養護老人ホームとか高齢者のケア施設では、テレビをつけっぱなしにしていたり、映像を流しっぱなしにしているところが多いですよね。

 確かに視覚的なものの方が情報として入りやすいので、興味は向かうのだと思いますが、映像はすごく受動的なメディアじゃないですか。だから映像を見ている途中で、自分が何か「はっ」と思うところがあっても、急に止めたりとか、巻き戻したり出来ませんよね。特に認知症の方の場合、停止したり、巻き戻したり、自分でコントロールすることはほとんどできません。

 でも、写真集だったら「はっ」と自分で思ったところでページを捲る手を止めることができる。自分のペースで視覚的情報に触れることができるという点では、それこそ本の効用が大きいなってすごく思いました。

亀谷 写真集やヴィジュアルブックはまずそれを手に持って、本自体の重さや紙の厚さを感じるところから始まりますからね。ページを捲るには実際に自分の手を動かさなきゃいけない。もしかしたら、紙やインクの匂いもするかもしれない。

 映像の場合はほぼ視覚と聴覚しか使いませんけど、本の場合はさまざまな感覚を使って情報を吸収することになりますからね。

 想像もしますしね。五感を総動員することになりますよね。

 ヴィジュアルブックっていうとどうしてもグラビアアイドルの写真集のイメージが強くて、いかしきれてないというか、読まれる場所が少なかったんですけど、今回このお仕事を通じてすごく可能性を感じました。こういった場所でこそ視覚的な本の使い道があるんだというのは発見ですね。しかも回想療法とは別の次元で使うことができる。今後そういうことが広がってくるとおもしろいなと思います。

亀谷 そうですね。そうなると、医療の現場も変わってきますね。  

 

育てる本棚

亀谷 でもすごいご縁ですよね。私、物心つかないときからピアノを習っていて、一番弾き込んだのがバッハ *4だったんですよ(笑)。

 そうですか(笑)。それはそれは。

亀谷 だから今回、この「さやのもとクリニック」の開業にあたって、私のなかで庭と待合のスペース、主棟、あと本棚が3声のインベンション *5だと思っているんです。それぞれにメロディがあって、1声ずつ違うメロディだけど、一緒に合わさると、また違ったメロディを奏でてくれる。

 なるほど。

 今回、亀谷さんのお話を聴いていて、すごくいいなと思ったのが、患者さんのためにいい場所をつくろうということではなくて、悪くない場所をつくろうとしているというところです。

 本ってどうしても、置いておくだけで効果効能を期待されてしまう存在なんですよね。たとえば学校教育の現場でもそうでしょうし、何かユーザーにとっていい効果を与えようとする文脈で用いられることが多い。

亀谷 教科書的存在ですからね。

 そうなんです。模範であり、正義であり、それは絶対的に正しいことというか、「本=良いモノ」という暗黙知がある。だけど、実際には本にも邪なものもあれば、いかがわしいものもあるし、危ないものだってもちろんあるわけです。完全にクリアで清潔で間違っていないものかというと、僕はそうでもないと思っています。本にも間違いはありますし、読んでも間違えることは当然ある。

 そもそも病院という場所は行くのが嫌な場所で、診察を待つのも不安で、緊張感もある。だから本で良い場所に変えましょう、ということではなくて、そこに本があることで、少しは気持ちが上向くかな? ぐらいのスタンスで亀谷さんに臨んでいただけたことは、僕にとってすごくありがたいことでした。それぐらいのスタンスがここに並んでいる本たちにとっても、実は一番幸せな置かれ方という気がするんですよね。

 おかげさまで、正直な本に対する僕の気持ちを本棚に落とし込むことができました。

亀谷 私自身が今ここにいて、緑を眺めて、本を見て、そんなに悪い気はしないんだけど、どう? 他のみんなもそう思ってくれると嬉しいな、その程度なんです。

 そのぐらいのテンションの方が僕は元来、本の差し出され方として調度いいんじゃないかなと思うんですよね。

 あの場所にいま種をまいた段階だから、これからどうやって根付いて、芽吹いて、最後は花を咲かせるのか。

亀谷 どんなふうに花が咲くかはまだまだわかりませんよね。患者さん自体も認知症の方がたくさんいらっしゃるのか、それとも意外に若い方が多いのか、こればっかりは開けてみて、使われ始めてみないとわかりません。

 心身になんらかの問題をかかえた方を診るというスタンスなので、間口は広いです。病院って、実際に患者さんがいらっしゃって、治療が始まって、施設を使っていただいて、私たちも使うようになってまたいろんなふうに変わっていく。まさに幅さんがおっしゃったように、育っていくというか、そんなふうに年月を経て変化していく場所だと思います。

 そうですね。実際に患者さんがいらっしゃって、待合スペースを使うようになったら、僕らも少しずつ本を入れ替えながら、使う人やその場所の使われ方に合わせて調整していきたいなと思っています。  

-次回はNPO 本と温泉に会いに行きます。-

 

*1:認知症:後天的な脳の器質的障害により、正常に働いていた脳の機能が低下し、記憶や思考への影響がみられる状態。

*2:さやのもとクリニック:2014年11月開業。心療内科・内科、認知症ケアを中心にした病院。佐賀県佐賀市道祖元町71

*3:回想法:精神科医、バトラー,R.が提唱した心理療法。主に高齢者を対象とし、本人が幼少期に遊んでいたおもちゃや昔の写真等を見て、過去の思い出を語り合うことで、脳が刺激され、精神状態を安定させる効果が期待できるとされている。

*4:バッハ(Johann Sebastian Bach):18世紀、ドイツで活躍した作曲家・音楽家。

*5:3声のインベンション:バッハの30の作品のうち、15曲の3声のセットに対して与えられた名前。「とけ合って響く」という意味が込められる。

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